幻想再帰のアリュージョニスト読む

18禁ゲームとかはてな村が好きな人が「幻想再帰のアリュージョニスト」読んでみる

幻想再帰のアリュージョニスト読む5

面白くなって参りました


概要

・"Hello,World!"の主人公とか西尾維新作品の主人公っぽいね。すばらしい。今までこの先読み続けようか迷ってたけど、これから先も読んでいこうと思った。西尾維新と違ってそう「なってる」わけじゃなくてそう「なりたい」主人公でしかなく、真性の存在と比べたら偽物でしかないわけだけれどむしろそれがいい。

人命を高く見積もるならば、何の罪もない、巻き込まれただけの少年は助けざるを得ない。それはごく普通の感性だろう。話を俺の名誉とか義理とか、そういう方向に持って行ってもいい。そんなのは選択肢が無いのと同じだと、俺は思う。命が高いという前提。殺人は許しがたいという前提。暴力の持つ責任とその重みという共通認識。人間社会に生きていれば、誰でもそういうことに意識を向けずにはいられない。そんなものは糞だ。行かなければ人道にもとる、行けば命に関わる、そうとわかっていても行くしかない、なんてのは御免被る。俺がハードで野蛮な異世界を望んだのはそういうのにいい加減うんざりしていたからだ。だから命は軽くなければいけない。俺はあの少年の命を軽く見積もる。俺を害しようとする連中は彼の命が重いと考え、それ故に俺が彼を助けに来ることを期待している。そんな期待は裏切ってやろう。悪いが一度縁があっただけの他人の命を高く見積もれるほど俺は情の深い人間じゃないし義理堅いわけでもない。だから、この行為には大した意味があるわけじゃない。助けるのも助けないのも、そこらの露天で軽食を買うか買わないかの選択と同程度。そのくらいの意味合いでなくてはならない。だから俺は殺人鬼になりたいと願うのだ。俺は邪悪でありたい。善良さとか正義とか、そういう人を圧迫するような規範に、生まれ変わってまで縛られたくはない。

真っ当な行動とは言い難い。決断を追認し続けると言う行為は、まさしく思考を放棄した獣そのものだろう。けれどそれでいい。正しさとか、葛藤とか、決断とか、そういうものから俺は距離を置きたい。成熟した人格に成長なんてしてやるものか。

主人公について

・やはり非モテには何らかの機械的なサポートが必要。決断主義とか要は勇気がないんでしょとかアホかしね。

俺にはこの世界で生きるための理由が無い。軸足が存在しない。なら、俺の理由は他者に求めるしかないのだ。それがコルセスカであってはいけないということは無い。生きて戦うその理由を、彼女に預けてしまえばいい。どうせ大して選択肢は残されていないのだ。俺は主体的に選択することに向いていない。だからこそ、精神を機械に預けている。


・己の中の人間的感傷を殺せ、みたいな。なんでこの主人公ここまでロボットになりたがるのか、なんというかね。「マグダラで眠れ」のクースラみたいになりそうだね。

この期に及んで俺は、他人に自分の全てを預けてしまうことを躊躇してしまう。何故なら、その道は生前に通って、失敗した道だから。

何も背負わず、何も感じず、ただ自動的に、神経反射で動くだけ。生きているだけの物。

・おー、前の話の善行?が悪い形になって返ってくるあたり、この世界のすさみっぷりがわかるな。そして、きれい事を言わない主人公はなかなかすばらしい。

かつて、俺は一度彼を助けた。それは安全にその場を切り抜けられるという自信があったからだ。あの場所には大量の敵と、俺が一度は敗北した男が待ち構えている。行けば今度こそ俺は死ぬかも知れない。結論など最初から決まっている。

タクティクスオウガでバルマムッサにて「1」を選んだルートっすね。きわめて世界のことわりに従順。 心のままに行動できてないと、一つ一つ自分のこうどうに理屈が必要になって、その理屈がまた自分をがんじがらめにしてという感じか。

今更後悔などできるはずも無い。誰かを殺せば報復される。それがこの世界の理だ。
「結局、何もかも我が身可愛さってことだよ。生きるために誰かを殺すのも、目の前で誰かの命を見捨てるのも、根っこは同じだ」
誰も、俺を責めることはできない。


・だけど納得してないのがバレバレでそれを突っ込まれるとすぐ崩れる。装甲悪鬼村正の主人公あるいはヘブンスフィール編の士郎のようだ。良い意味でヘタレだったゆえに鬼気迫るものがありましたね。

「いっそ黙っていればいいのに。ああ、これまでは言葉が通じないからそれで済んだのか。誰ともコミュニケーションできなければ、言い訳を並べることもできないもの」
そういって、トリシューラはにこやかに微笑んで見せた。


・村正の場合は妹を殺すという、そしてヘブンスフィール編では桜を救うという唯一の目的が彼らを縛り動かし続けたわけだけれど、この作品のアズーリアとの関係はどうなるか。アズーリアがアキラを救うためにかけた緊急回避的にかけた呪いがちゃんとフォローされないまま放置されたせいでアキラがいつまでも宙ぶらりんなまま固定されている。

俺は決して殺人を後悔しない。どんな理屈を援用しても、アズーリアの言葉を守り抜くために間違った殺しを正当化してみせる。俺は絶対に死ぬわけにはいかない。再びアズーリアに出会うまでは、どんなことをしても生き抜かなければならない。それはどこか呪いに似ていた。それでも、この呪いは今日まで俺を守ってきてくれた。歪でも、間違っていても、俺はそういう存在としてこの第五階層に固定されてしまっている。誰に何を言われても、それだけが俺の足場なのだった。
「窮屈そうに生きるんだね」

・めんどくせーなこいつ(笑)機械に精神預けるってのは逆に言うとあれだな。こういう感じで行動理由設定できないとちゃんと動けなくなるって事でもあるか。

ようやく見つけた、再会への手がかり。よりにもよって、都合の良いことに。俺にとっての動機が出来てしまった。彼を助けに行くことは、アズーリアとの再会という最優先目標に矛盾しない。ならば後は、それらしい大義名分とかを付け加えれば行動が設定できる。


・ただ、選択を忌避するといいながらこうなることをちゃんと理解した上で生存戦略としてちゃんとサイバーカラテを「選択」してるわけだけどね

自分の選択を委ねることへの忌避感。暴力を振るうのに、きっと俺は向いていないし、力を制御できない俺に武道を修める資格はない。ゆえに俺はサイバーカラテを選んだ。暴力を飼い慣らすためのふさわしい精神と身体。それらをアウトソーシングすることを前提とした武術がサイバーカラテ

今日のはてな

・やはりはてなスターは滅ぼすべき

大量のコメント。名指しされた外世界人が来るか来ないか、凄惨な光景への期待、人道的な見地からの非難、特に中身のない短文などが並ぶ。閲覧者たちの中で最も評価が高いコメントはこれだ。
『 *********************』『同意する』をチェックした閲覧者が圧倒的多数。自演じゃねーのか、このコメント。


はてブもこういう風になればいいのに→動画信仰
どちらかというとペルソナ2「罰」っぽいね

動画の情報ソースとしての確度って再生回数によって変動するの。『動画の価値は再生回数に依存する』という動画信仰が、その呪力によって動画そのものの情報量を拡張する。逆説的に、正確な動画は爆発的に再生回数が伸びるんだよ。あの動画、さっき投稿されたばかりなのに不自然に再生回数が伸びていたでしょう?


・思考と行動の順番が逆=異獣=はてなアイドル

「貴方の周囲が敵だらけなのはその考え無しな行動のせいです。つまり貴方が馬鹿だからです」
いや、思考と行動の順番が逆なだけで、ちゃんと考えてはいるんだ
「貴方はこのままだと、真の意味で異獣になる。」


その他
・サイバーカラテシミュレーションの記述読んで、バキとゴキブリ先生の脳内バトルを思い浮かべるか、それともウメハラのインフィルトレーションに対する脳内シミュレーションを思い浮かべるか。私は後者!

シミュレーターによって再現されたあの男の技は、極めて凶暴で一撃が重い。俺のアバターは何度も挑みかかるが、その度に打ち負かされてしまう。想定される敵手の実力は俺よりも数段上だ。勝つためには実力差を埋めるだけの要因が必要になる。ではそれをどのようにして用意するか。


ゼノグラシア

単語、文法、そうした知識が俺には無いのにも関わらず、過去の記憶に遡って、言葉が日本語に置き換えられていく。少年が異世界の言語を喋っていたという事実が過去に遡って改変されているかのような錯覚。そんなはずがない。だが何故か俺は彼の言葉を理解できる